おりがみだいすき おってあそぼ!アンパンマン おりがみだいすき おってあそぼ!アンパンマン
原作: やなせ たかし 折り図・指導: 藤本 祐子 作画: やなせスタジオ  出版社: フレーベル館 フレーベル館の特集ページがあります!
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連載

かこさとしさん90歳おめでとう! 記念連載 かこさんを囲む人たちインタビュー

2016/06/30

【連載】第1回 かこさとしさん インタビュー

【連載】第1回 かこさとしさん インタビュー

記念すべき第1回目は、かこさとしさんご本人にお話を伺いました。 今年、90歳を迎えられたかこさんの、創作への原動力、子どもへの思い。そして新たにチャレンジしたいことなど聞いてみたいことは盛りだくさん! メッセージ動画も公開していますので、最後までお楽しみください。
●絵本は子どもたちへの罪滅ぼしとして……。
―― 絵本ナビでは2012年に一度、お話を伺っています。それから4年経ちましたが、その間に、『からすのパンやさん』の新シリーズや『どろぼうがっこう』の新作など、新しい絵本がどんどん出版されて、ビックリしました。

2年ほど前から、いろいろな魅力ある企画を出版社さんが持ってこられてね。ついお手伝いをしなきゃと思ったんです(笑)。昔と比べたら3倍以上、制作に時間がかかるようになりましたから、時間を無駄にしないように、今は、中学時代を思い出しながら、早朝作業「早勉(はやべん)」をしています。
―― 早勉ですか(笑)。今はどんなおはなしを描いているのですか?

昔、セツルメントの活動で子ども会をやっていて、そのときにPRの一環として、新聞を作ったことがありました。それを見た子どもが自分たちも作りたいと言って、一緒に「こどもしんぶん」を作ったのですが、それがなかなかの傑作ぞろいで……。そのときの「こどもしんぶん」に近いものを今、描いています。
―― 「こどもしんぶん」! どんな作品になるのか、今からとても楽しみです。かこさんの絵本の多くは、セツルメントでの活動が基盤になっていると感じました。

結果的にそうなりましたが、ぼくが絵本を作っているのには、ぼくの過去が大きく関係してきます。一言で言うと、ぼくは「罪滅ぼし」のために子どもさんの仕事に関わってきたのです。

―― 罪滅ぼしですか? 

子どものころ、我が家は貧乏だったので、学費を払って上の学校に通う望みが薄かったんです。でも、学校に行きたかったので、考えた末にぼくは、軍人の士官学校に行くことを志願しました。そこなら、学費が免除されるうえに、小遣いももらえましたから。それにぼくは飛行機が好きだから、航空士官学校に入れば飛行機乗りになれると思ったんです。
でも、目が悪かったので、軍人になることができず、数え年20歳のときに終戦を迎えました。一緒に中学校で士官学校を目指していた仲間は、みんな特攻に志願して死んでしまいました。20歳にして、それまでの世の中の情勢や価値観が180度変わってしまったのです。ぼくはビックリしてしまって、それから数年間、何のために生きているのか悩み、七転八倒の苦しみを味わいながら、まるで死んだような気持ちで過ごしていました。

※中学校……この時代の旧制中学校は今の高校にあたる。
―― それまでの軍国主義から、一転していった時代ですから、当時はかこさんだけでなく、多くの方が悩まれていたのだと思います。

でも、あるとき、「こんなことになってしまったのは、自分が世間のことを知らなくて、軍国主義に疑問を持たなかったからだ。もっとしっかり他の国のことや周りのことを勉強していたら、間違った道には進まなかった」と思ったのです。同時に、自分を含め、今(=当時)の大人たちに期待することはできないから、子どもたちに物事を正しく判断できる、しっかりとした知識を身に着けてほしいと思うようになりました。その思いがセツルメントの活動につながり、今まで絵本を作る原動力となっているのです。
●導かれるように進んだ、絵本作家への道
―― セツルメントの活動は、どのようなきっかけではじめられたのですか?

大学を卒業し、会社勤めをしていたとき、会社と家との往復ではつまらないと思い、子どもたちと接する活動をしたいと考えました。ぼくは学生時代に演劇をかじっていたので、人形劇なら子どもたちに伝えられると思い、人形劇団の門戸を叩きました。それが、「人形劇団プーク」でした。会社が終わると、すぐにプークに顔を出し、人形劇の技術を学ぶ日々の中で、亀有と大井町で子ども会の活動をしている劇団員の人と出会ったんです。その人が子ども会を手伝ってくれる人を探しているということで、自ら立候補をして、子ども会の活動に参加することとなりました。それが昭和26年(1951年)のこと。やりたいと思っていたら、向こうから望むものがやってきたのです。

※人形劇団プーク……昭和4年(1929年)に設立された人形劇団。
―― 子ども会ではどのような活動をしていたのですか?

子どものころから絵が得意でしたから、最初は絵でも教えておけばいいと思っていたんです。でも、実際に参加してみたら、子どもたちは実に正直で、面白いと思ったものにしか参加しない。これは困ったぞと思って、こちらもいろいろ考えるのですが、なかなか子どもたちのお眼鏡に叶うものは発信できない。結局、遊びは全部、子どもたちから教わりました。

―― かこさんも、子どもと一緒に遊びに参加されたんですか?

子どもは、大人のことを、教訓を垂れるか、いけませんと注意する存在だと思っていますからね。大人が子どもの遊びの中に入ろうとすると、まず警戒します。そのうち、「この大人は、自由にやらせてくれる、おかしな大人だ」と認識するようになって、それはそれで警戒される(笑)。その警戒が取れるとようやく、同士のように感じてもらえるようになるのですが、同じ立場だと認識されるまでに、1,2年はかかりましたね。
―― 子どもに同士と認めてもらうのも、大変なのですね。亀有と大井町での子ども会の活動は長く参加されていたのですか?

数年経ったころに、セツルメントのメンバーから、川崎のセツルメントを手伝ってほしいと言われ、活動場所を移すことになりました。そうしたら、住まいと職場とセツルメントの活動場所がたまたま近くなって、歩いて10分くらいの距離にまとまったんです。これは神様のご配慮に違いないと大喜び。おかげで25年近くも会社に勤めながら子ども会の活動にも関わることができました。
―― お仕事をしながら、子ども会の活動もされるのは、とても大変ではなかったですか?

いえいえ。とても幸福でした。そういう場所には、大学生が学業の傍らお手伝いに来ていて、彼らはいつ参加しても自由なんだけど、ぼくは、「この人は、3か月くらい来てくれるかな?」「この人はすぐにやめてしまいそうだ」と密かにチェックしていました(笑)。その中のひとりに、浪人生で活動に参加している女子学生がいたんです。内田路子さんという方だったのですが、ぼくは「浪人中ならそれほど長続きしないだろう」と思っていました。案の定、2、3か月もしたら彼女は活動に参加しなくなりました。でも、これには後日談があって、しばらく経ってから、彼女から手紙が届いたんです。「あなたの絵本を出したいから、来てほしい」と。驚いて彼女の指定した場所に出かけていったら、そこは水道橋のかなり年季の入った木造二階家でした。そこにいらっしゃったのが、内田さんのアルバイト先であった、福音館書店の松居直さんだったんです。

―― すごい! 運命的ですね。

まさに、神様のご配慮だと思いました。さらに驚いたのは、内田さんが、ぼくが密かに尊敬していた内田巌さんという画家の娘さんだったこと。そして内田さんはその後、堀内誠一さんの奥様になられたんです。

※内田巌……洋画家。1900年〜1953年。
―― 堀内誠一さんの奥様が、かこさんを絵本の道に導いたのですね。

それと松居直さんがね(笑)。ぼくは割と理科系だったから、物事を合理的にやらないと気が済まない質だと思っていたけれど、こんな偶然のめぐりあわせが2回も3回も起こると、本当に理屈では説明できない世の中のめぐりあわせがあるということを思い知らされますね。
―― 子ども会への参加、川崎への移動、そして内田路子さん、松居直さんとの出会い……。全てがかこさんを絵本の道に向かわせているように感じます。

●昔の子ども、現在の子ども
―― 60年以上に渡り、子どもたちの姿を描き続けているかこさんから見て、今の子どもと昔の子どもの違いを感じますか?

子どもというのは天真爛漫で、純真無垢でというのは一理ありますが、我々大人と同様に、世の中を生きている仲間だから、当然、その時代の影響を受けて、学んだり反発したりしています。世の中が変わっていくと、それに合わせるように変わっていく部分はあると思いますが、基本的に、子どもの根本の部分は変わらないと、ぼくは思います。昔の方が良かったというものではなく、その時代に合ったように子どもは成長していくものです。
―― 子ども自体の本質が変わるのではなく、時代の様子によって、子どもたちは変化をしていくのですね。

そうです。そんな時代に感化させずに、わが子をもっと良く、もっと素晴らしい人間になってほしいと思うのは、親御さんの当然の願いだと思います。でも、子どもは、親のことを親よりもずっとよく見ています。だから、子どものためにと何かするのではなく、大人は大人の役目をしっかりと全うして生きてく。その姿を子どもに見せるのが良いと思うんですね。
―― 過度に干渉したりせず、見守ることが大切ということですね。

そうです。ぼくもぼくなりに子どもさんのお役に立つことをできればと思い、絵本を作ってきましたが、思った通りに進むことはなくて……、結局、宿題ばかりが残ってしまいました。
現在、手がけている作品も見せていただきました。
――  たくさんの作品を生み出しているかこさんが、宿題ばかり残っているというのは、すごく意外です。90歳になられて、新しくチャレンジしてみたいことなどはありますか?

ぼくの計画だと、描きたいものをすべて描くには、あと20年くらいは最低いるんだけど、20年はとても……(苦笑)。次のオリンピックだって怪しいくらいです(笑)。「だるまちゃん」シリーズのアイデアも、50〜60くらいは相手役を考えているんですよ。その全部のストーリーができているわけではないけれど、ここぞというのは自分で描きためて、僕が死んだ後にでも出してやろうという出版社があったら出してくださいと思っています。

―― まだまだ、お元気でご活躍をしていただきたいと、子どもも大人も多くの方が望んでいると思います。今日は本当に、ありがとうございました。


●かこさんの私設ギャラリーを見せていただきました●
90歳を記念して造られたかこさとしさんの私設ギャラリーを今回、特別に見せていただきました。ギャラリーにはかこさんの少年時代からの作品が並べられており、それぞれの絵にはかこさん自身のコメントが添えられていました。今回は貴重な絵とともに、コメントもご紹介いたします。
「おもちゃの国に朝がきた」
第5回日本美術展出展(昭27 1952)
絵画修業時代 対象を「人間」と「子どもへの画」の2項目にしぼり、板橋、王子、本郷等の保育園に後者をおくっていた。この絵は川崎セツルの子ども会の為にかき セツル診療所の待機室に掲げ、雨天時 子ども達と絵さがし、しりとり、動物あてと地平線上の各国童話の導入教材として使った。しかし60年の月日は質の悪い紙を見事に褐変してしまった。 
「学生時代の自画像」
(昭21 1946)
大学入学の年、戦災、敗戦、やっと授業に辿りついたものの生活混乱の為、自治生活協同組合に参加。翌年になりやっと学内が落ち着き、各種サークルが復活。その中で演劇の装置、美術会の結成を行い、時間があれば人間描写 特に自像を多くかいていた。若気の至り、ピカソやミロ、シャガールといつた多様な様式をマネしていたが、比較的、リアルにかいた水彩の一つ。
「わっしょい、わっしょいのおどり」
第1回平和展出品
(昭27 1952)
いわゆる童画は、動物風景などが多く、人を描いてもかわいい類型であるのにあきたらず、泣き 怒り、動き 笑い 働き 考える 多様な人の共生共苦共楽を示そうとしたもの。
この絵の黒白絵ハガキを、見られた福音館書店の松居さんが絵本をかく機会を下さった 僥倖の画。
焼き物やスケッチなども展示されています。
かこさんが小学校時代を振り返ってまとめた卒業文集。「過去六年間を顧みて」。
「過去六年間を顧みて」中にはお父さんと電車に乗った思い出が綴られています。
戦時中の情勢や心情もリアルに書き綴られています。
● メッセージ動画公開中!

読み聞かせに最適!見た人に幸せが舞い込むななめねこ
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