●「らんぷの本」シリーズは好きで、集めていました。
───『佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人』は、小原央明さんが佐々木マキさんのデビューから最新作までの活動をまとめていらっしゃいますね。
はい。小原さんはもともと別の出版社で編集をしていて、ぼくのマンガの作品を一冊にまとめた『うみべのまち 佐々木マキのマンガ1967-81』(太田出版)を編集してくれました。それからの付き合いなのです。この『佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人』は彼がぼくの本のセレクトから構成、文章まで全て考えているので、ぼくとしては、割と他人事みたいな気持ちなんですよ(笑)。
佐々木マキさんの自選マンガ集『うみべのまち』(太田出版)
───そうなんですか。デビュー当時の貴重なイラストがカラーで紹介されていたり、絵本デビュー作の『やっぱりおおかみ』(福音館書店)や『ぼくがとぶ』(絵本館)、『ぶたのたね』(絵本館)など、絵本ナビ内でもファンの多い作品が生まれるきっかけのおはなしなどが載っていて、とても読みごたえがありました。
ぼく自身、河出書房新社の「らんぷの本」シリーズが以前から好きで、「竹久夢二」や「東郷青児」を集めていました。でも、まさかぼくがそのシリーズに並ぶなんて思っていなかったんです。実は、「らんぷの本」はすでに亡くなっている方が取り上げられるものだとばかり思っていたもので……。編集者さんにそう言ったら、「現役の方も紹介していますよ」と教えていただきました。
───この本の中に紹介されている作品のセレクトや掲載する内容については確認されたのですか?
はい。印刷する前のタイミングで見せていただきました。ぼくとしては、特にこれを出されたら困るというような作品もありませんでしたから、ほとんどNGは出さずに、小原さんの構成されたままを生かしていると思います。
───ほかの方がセレクトした作品を見て、どう思いましたか?
小原さんはぼくが自分のマンガを取り上げるときに選ぶページとは違うページを選んでいたりして、そういう違いが面白かったですね。
───マンガ家、絵本作家、そしてイラストレーター……、本で読んで、改めてこれほどいろいろな顔をお持ちの方は少ないように思いました。
それは、ぼくがけっこう飽きっぽい性格だからだと思います。デビュー当時、「ガロ」を中心にマンガを発表していたのですが、そのうち原稿料が出なくなってしまったんです。それで、ぼくもずいぶん貧乏をして困っていたときに、理論社の編集者さんがぼくのところに訪ねてきて、「生活のために子どもの本の挿絵を描きませんか?」って言われたんです。
───子どもの本の挿絵が子どもの本との出会いなんですね。
子どもの本の作家さんの中で、ぼくのマンガを見てくれた方がいて、挿絵をお願いしたいと思っていたそうなんです。でも、多分断られると思うからと、遠慮されていたらしいんですね。ぼくは全く断る気持ちなんてなかったから、二つ返事で引き受けました。そのとき、その編集者さんから「一冊引き受けたら、きっとどんどん挿し絵のお仕事が来ますよ」と言われたのですが、仕事をしてみたら、次々とお声がかかって、まさにその方の言った通りになったんです。
「童話の挿絵」
───児童文学の挿絵から、子どもの本の世界に入っていったのですね。その頃は、子どもの本や絵本に触れる機会はあったのですか?
いいえ。当時ぼくは20代でしたから。子どもの本に触れるきっかけは、その頃がはじめてだったと思います。
───児童文学の挿絵で、どんな風に描いたらいいか、戸惑うことはなかったですか?
それが、まったく無かったんです。それまでの子どもの本の挿絵がどういうものか、何となく想像はつきましたけれど、自分が描くものはそういう風にはならないという自信もありましたし、全部、自分の仕事にしてしまえばいいと思っていましたから。それがまた、子どもの本の世界の人たちには新鮮だったんでしょうね。
───この頃の、物語を読んで挿絵をつけていく作業は、後にご自分で絵本を描くときの、物語の作り方の参考になりましたか?
なりましたね。絵本を描きはじめた頃、内田莉莎子さんに「あなたは、絵は上手いのに、絵本のテキストは下手ね」と言われたことがありました。身に覚えもあったので、どうしたら上手なテキストを書けるかな……と思ったとき、ちょうど挿絵の仕事で手元にあった舟崎克彦さんの童話を読んでみたんです。なるほど、こんな風に物語を作るのかと。ぼくの『ねむいねむいねずみ』の文体は、ほとんど舟崎さんの真似なんですよ。
───え?! そうなんですか。そのことを舟崎さんにはお伝えしたんですか?
ええ。「当然だろう」という顔をされましたけどね(笑)。舟崎さんをはじめ、多くの児童文学作家の方から、物語の作り方を勉強して、絵本に活かしました。
───『佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人』の中には、デビュー作が出版されるきっかけも載っていますね。以前から絵本を描きたいと思っていらしたんですか?
絵本の、上質な紙にカラーで印刷されるところがたまらなく魅力的だったんです。それで、美大時代の恩師、秋野不矩先生にお願いして、福音館書店の社長の、松居直さんを紹介していただいたんです。それが、きっかけ。
───「ガロ」で描いていたマンガのバックナンバーを持って行ったんですよね。
鞄にいっぱい詰めてね。松居さんはとてもていねいに見てくださったんだけど、マンガをほとんど読まないようで、「このコマの続きはどこへ行くんですか?」ってたずねられて……。すごい大人もいるなって思いました。
───そのとき、松居さんが読んだマンガの中に、おおかみがいたんですね。「このおおかみを主人公にしてなにか描けないか」と言われたときはどう思いましたか?
困ったことを言われたな……ということはなくて、「それでいいなら、ぜひ、やりましょう!」という気持ちでした。絵本としてもストーリーを作りやすいキャラクターでしたから。
───そうして40年近く読み継がれている『やっぱりおおかみ』が誕生したのですね。絵本を描くとき、松居さんからオススメされた絵本があったそうですが……。
モーリス・センダックの『In the Night Kitchen』(邦題『まよなかのだいどころ』)です。
───よく見ると、ページの中にコマ割りがあったり、吹き出しに文字が描いてあったり、共通する部分を感じますね。
その前に、もっと絵本らしい絵を松居さんにお見せしたんです。でもそれは「全然ダメですよ」とダメだしされてしまって、代わりに薦められたのがセンダックの絵本でした。こういう手法なら……と見よう見真似で描いたのが『やっぱりおおかみ』なんです。
───見よう見真似で、こんなに自由気ままで、ちょっと切ないおおかみの絵本ができあがるなんて、やっぱりすごいです。でも、出版当初は「子どもらしくない」という反発の声があったそうですね。マキさんはどう感じていましたか?
絵本を出すからには、新しいことをやってみたかったし、ほかの方がやっているようなことを、ぼくがやっても仕方がないと思っていました。出版した当時は、批判の声が出るとは、考えもしませんでしたから。
───2冊目に出版されたのが、最近絵本館から復刊された『ぼくがとぶ』ですね。男の子の「空を飛びたい!」という希望がそのまま絵本になったような作品で、すごく爽快な気持ちになりました。
『やっぱりおおかみ』を描いているときから、次は飛行機のはなしを描こうと密かに思っていました。ちょうどプラモデル作りに熱中していたときでもあったんで、飛行機しかないなと(笑)。ただ、デビュー作のときはあまり絵本業界のことを知らないまま、無我夢中で描いていたので、次はきちんとリサーチしてと、空を飛ぶ絵本をたくさん読みました。すると、ほとんどのおはなしが、妖精や魔法の力で空を飛ぶんです。そんなのはつまらないから、本当に飛行機を作って飛ぶはなしを作ろうと思いました。
───飛行機を作っている納屋のシーン、多くの男の子が目をキラキラさせるシチュエーションですね。
男の子が作っている飛行機は、第一次大戦のときのフランス軍の飛行機をモデルにしています。どうしてかというと、エンジン以外は木製、羽根も布の上に塗料を塗っているんです。
───子どもでも手に入る材料で作っているんですね。
いろいろ資料を探して、プラモデルも作って、あらゆる角度から飛行機を観察してから描きましたが、エンジンや内部構造を調べるのにとても苦労しました。絵本を出版した後、ある航空評論家から「飛行機の内部構造がきわめて正確に描かれている」とお墨付きをもらえたのは、嬉しかったですね。
───一度、失敗してもあきらめないところや、見事飛び立って、上空から下を見たときの街並みなど、気持ちがスカッとする展開にファンも多い作品ですね。
絵本に登場する子どもは、フランスの田園地帯に住んでいて、お父さんとお母さんは農作業をしている設定です。一応、地図を見て、どういうルートで北極まで飛んだのかも調べて描いているんですよ。
───そんなところまで! 絵本作家になったばかりのころは、マンガ家としても活躍されていたときだと思います。絵本を描いているときと、マンガを描いているとき気持ちは違いましたか?
最初の頃はあまり違いが無くて、「自分にどんな表現ができるか」ということばかり考えていたように思います。きっと余裕がなかったんですね。でも、『ぶたのたね』(絵本館)を描いたくらいから、マンガと絵本を描くときの気持ちは大きく変わってきました。絵本は、読んだ人が面白かったと言ってくれるものを描きたいと思うようになったんです。面白いことを考えたとき、同じように読者にも「面白い」と思ってもらえることが快感になったんですね、きっと。