注目の若手から名だたる描き手まで、数々の画家たちと宮沢賢治の作品とのコラボレーションが注目されているミキハウスの「宮沢賢治の絵本」シリーズ。これまでの作品を振り返って、シリーズの編集者である松田素子さん、絵本ナビ編集長の磯崎園子、ライターの大和田佳世の3人が語り合う座談会【後編】です。
【前編】に引き続き、宮沢賢治の文章に対して、描き手がどのように共鳴し、絵本として結晶していったか。様々な角度からとことん語り合いました。
ミキハウスの「宮沢賢治の絵本」シリーズ 既刊全冊(29冊)
これまでのインタビューはこちら
>>シリーズ作品 (編集者・松田素子さん)
>>『銀河鉄道の夜』(編集者・松田素子さん)
>>『雨ニモマケズ』(柚木沙弥郎さん)
>>『黄いろのトマト』(降矢ななさん)
>>「宮沢賢治の絵本」シリーズ とことん語ろう!座談会【前編】
●読み手は好きなように食べていいんです
磯崎:【前編】では『鹿踊りのはじまり』(2018年秋発売予定)を含め、「宮沢賢治の絵本」シリーズの11冊の絵本について語ってきました。【後編】では、さらに残る19冊についてお話していきたいと思います。
【前編】で、編集者である松田素子さんに「画家が宮沢賢治の作品をどんなふうに絵にしているのか、絵を読んでほしい」と言われて、私たちの“絵本を見る目”が変わりました。「(賢治の絵本は)ちょっと難しい作品が多いんじゃないかな」と思っていたのに、全然そう思わなくなったというか……たしかに不思議な話はたくさんあるんですけど。宮沢賢治の作品を「難しい」と思ってしまうのは、「正しく理解しなくちゃいけない」という気持ちがあるからでしょうか?
絵本ナビ編集長・磯崎園子
松田:「正しい」読み方をしなくちゃと思うと、読むこと自体が窮屈になりますよね。読者には感じる自由があるんですから自由に読んでいいと思いますよ。そういえば、実は宮沢賢治自身が、生前出版した童話集『注文の多い料理店』の「序」の文の最後に、こんな言葉を残しているんですよ。「これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません」と。
つまり「食べてね」と言っている。ね、みんな、それぞれに食べたらいいんです。しっかり咀嚼して、何度でも食べたらいいんだと私は思います。たしかに、それだけの噛みごたえと深い謎の味があります。謎を、「わからない」と言ってすぐに捨ててしまうのでなく、わからない味が面白い、飽きないなあと思って咀嚼するのもいいんじゃないかしら。賢治さんは、「正解を見つけて」と言っていたのではなく、自分が書いたものを読んだ人それぞれが、それぞれの読み方をして、生きていくときの何かの栄養にしていってくれることを願っていたんじゃないか……、私はそう思うんです。
編集者・松田素子さん
磯崎:松田さんに「それぞれの読み方で読んでいい」と言われると作品が違って見えてきます。『どんぐりと山猫』は、にかにか笑ったりしょぼんと落ち込んだりする山猫に対して、一郎が妙に冷静な表情をしているな……と思ったら、一郎が自分の息子のように思えてきておかしかったんですよ。
(『どんぐりと山猫』田島征三・絵)
松田:そんな個人的な読み方もいいと思います(笑)。どんな読み方だって、恐れることはないと思う。今日と明日の感想が違うことだってありますよね。作品と出会うということは、そういうことだと思います。
ところで、作品をいろいろな目で味わうという意味では、私は『どんぐりと山猫』の最後の場面を見て、「シンデレラ」を思い出しました。最後に白いキノコの馬車にねずみいろの馬が出てくるでしょ。「シンデレラ」の場合はカボチャの馬車に灰色のねずみが馬に変わる。「どんぐりと山猫」では、帰り着いたら黄金のどんぐりがふつうの茶色のどんぐりに変わってしまう。「シンデレラ」では綺麗なドレスが、元のみすぼらしい服に変わる。賢治は、アンデルセンもグリムもアリスも読んでいた人ですから、どこかで発想のもとになっているのかも、なんて思ったりします。こんなところにも賢治の読書遍歴やら茶目っ気を感じます。
「『よし、はやく馬車のしたくをしろ。』白い大きなきのこでこしらえた馬車が、ひっぱりだされました。そしてなんだかねずみいろの、おかしな形の馬がついています。」(『どんぐりと山猫』田島征三・絵)
松田:ついでにもうひとつ。『猫の事務所』でも「シンデレラ」を思い出しました。シンデレラのお話はフランス語で「サンドリヨン」という題名で知られています。和訳すると「灰かぶり」という意味らしい。いじめられて、ベッドもなくて、かまどで暖をとっていたために灰で汚れている女の子――そんなシンデレラと同じように、いじめられるし、体の皮が薄いためにかまどで暖をとっている竃猫(かまねこ)のイメージは重なります。
●絵本はめくるもの
大和田:私がシリーズの中で好きだったのは『カイロ団長』です。善良で調子のいいかえるたちに、粟つぶをくりぬいた器で何杯もお酒をのませ、酔い潰してだまして支配するとのさまがえるは怖いんですけど……。個人的には小さなかえるたちの幸せそうな庭仕事や、かびの木の絵がカラフルで可愛いことに目を奪われました。
絵本ナビライター・大和田佳世
松田:ええ、かびの木の表現、いいですよね。それと、この絵本で私が注目してほしいと思っているところは、例えばこの場面――「すると、とのさまがえるは立ちあがって、家をぐるっと一まわしまわしました。すると酒屋はたちまちカイロ団長の本宅にかわりました。」のところ。ぐるっとまわしたら、酒屋が団長の家に変わっちゃうんです。「どう描くの!?」と思うでしょう。で、こしだミカさんが描いた絵を見てください。カイロ団長の、この交差した手つきを! いかにもからくりというか、相手を困惑させるというか、魔法をかけるような手つきでしょ。
「すると、とのさまがえるは立ちあがって、家をぐるっと一まわしまわしました。すると酒屋はたちまちカイロ団長の本宅にかわりました。」(『カイロ団長』こしだミカ・絵)
松田:歌舞伎の「廻り舞台」のような展開で、文章ではさらりと書ける場面も、画家はそれを一枚の具体的な絵として描かなきゃいけない。こしださんの表現は、見事だと思いました。
それと、この色! 前後のシーンとは全く違う、ある種の毒々しささえ感じさせるほどのべたっとした色です。絵本は、めくっていくことで表現するメディアですから、転換点となる画面の絵をどう描くかは、絵本を作る上では大事なポイントなんです。本当にすごい場面だと思いました。
磯崎:カイロ団長が目をまわしてのびてしまった後の、どっと笑って急に「しいん」となる場面もすごく印象的でした。『どんぐりと山猫』でもにわかに「しいん」となる場面が出てきますね。
松田:悪い奴をやっつけて「めでたし、めでたし」というお話とは違うんですよね。悪い奴だからと痛めつけてしまうだけだったら何も残らない。集団で誰かをあざわらった果てに訪れる寂しさを、賢治は知っていたと思います。こしださんは、1匹1匹のかえるたちの表情の中に、その何とも言えない気持ちを表現していますよね。
「がどう云うわけかそれから急にしいんとなってしまいました。それはそれはしいんとしてしまいました。みなさん、この時のさびしいことと云ったら私はとても口では云えません。みなさんはおわかりですか。ドッと一緒に人をあざけり笑ってそれから俄かにしいんとなった時のこのさびしいことです。」(『カイロ団長』こしだミカ・絵)
松田:場面が転換していくところをどう描くか、絵本作りの力が問われるところだと言いましたが、さすがだなあと思ったのは『オツベルと象』の荒井良二さんです。「オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり」という文章があるのですが、オツベルの帽子の色について文章で書かれているのはここだけなんです。
「オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり、両手をかくしにつっ込んで、次の日象にそう言った。」(『オツベルと象』荒井良二・絵)
松田:じゃあ、その前のオツベルは何色の帽子をかぶっていたか、荒井さんはどう描いたかというと……、見てください、このページより前に描かれているオツベルは、黒い帽子なんです。見比べると明らかに帽子が贅沢になっている。
つまりオツベルは、白象をこきつかって金儲けをして、象に食べさせる藁も減らして、自分は贅沢をしているんです。文章にはオツベルが最初どんな帽子をかぶっていたかなんて書かれていないけれど、荒井さんはオツベルの暮らしがどう変わったのかを帽子ひとつで表現している。見事な表現ですよね。
(『オツベルと象』荒井良二・絵)
松田:そして真っ赤な怒りに満ちた象たちの大迫力のページの後、次へページをめくると、ぱっと場面が変わって真っ白になる。すべてが終わってしまったようながらんとした絵になる。絵を支配する色の展開は、まさに、ページをめくりながら表現する絵本というメディアの、醍醐味だと思います。