───これだけ登場人物が多く、なぞなぞが出されたり、細かい看板が随所に登場していると実際の翻訳の作業も大変だったのではないですか?
なによりもまず、この絵本は日本が世界で最初に発売されるんです。それが翻訳作業にも大きく影響されましたね。
───え? 原書の出版国であるイギリスよりも日本が先なんですか?
はい。通常、翻訳のお仕事はすでに発売されている絵本を翻訳することが主だと思います。そこから、日本の子どもたちに分かりやすい表現や言い回しを考えていく作業になりますが、今回はそれ以上に別の部分がすごく大変でした。
───別の部分というと…、具体的にどんなことがあったのですか?
実は……途中でテキストが何度か更新されたんです。…というのも、日本はイギリスよりも2か月早く出版されることになっていたので、作品が完全にできあがる前段階のラフで翻訳作業を行わなくてはいけませんでした。そのため、テキストの変更がかなり出てきて、その都度改めて訳し直す必要がありました…。
───えー!! それはかなり果てしない作業になりますよね…。
でも、新しく送られてくるテキストはその前のよりどんどん良くなっていたので、作者がギリギリまで作品を良くしようと苦労されている様子を感じることができました。
───主にどんなところが変わったか、教えてもらえますか?
はじめに頂いた作品は、色んな意味でとてもイギリス的だと感じました。それを言葉にするとしたら、独特なクールさというか…。私、イギリスのテレビ番組が好きでよく見るのですが、パッと何か重要なことを言ったとき、言ったとたんにその人は背中を向けて去っていく、という撮り方が多い気がします。そういうとき、日本だと必ず一呼吸の間がありますが、それがないのです。それはドキュメンタリーであれお笑いであれ感じられる。オーディエンスを突き放すようなクールさがイギリスっぽいんですよ。
───ミグルーの文章も最初はそういうクールさがあったんですか?
最初はページをつなぐ表現があまり使われていなかったんです。前の場面が終わって、次の場面にやや唐突に切り替わるような感覚で、それがそのイギリスのテレビ番組の撮り方に通じているように思いました。ただ、日本の子どもたちにはちょっと分かりにくく感じると思って、翻訳では接続的な文章を追加して訳していました。それが改変されたテキストではつながりが挿入されて、一本のストーリーがどんどん分かりやすくなっていきました。
───ウィリアム・ビーさんの今までの作品の中には、ラストがかなり衝撃的な終り方をしているものが多いですが、それもイギリス的という感覚なのでしょうか?
『だから?』(訳:たなかなおと 出版社:らんか社)や『かえる ごようじん』 (訳:たなかなおと 出版社:らんか社)ですよね。もしかしたらウィリアム・ビーさんは否定するかもしれないけれど(笑)、エッジが効いているパンクな感覚はとてもイギリス的だと思いました。
───ミグルーが食べること以外は意外とクールな性格なのも、今までとは違う主人公像を感じました。
そうなんですよね。ミグルーには主人公が持ちがちな善い行いをしようとか、みんなを助けようというようなヒロイズムを強く持っていないようなんです。むしろ、自分がけがをしないようにヘルメットをかぶらせてほしいと要求したり、危ない場所から避難したり、結構ちゃっかりしていますが、友だちがこまっていたら、自分のできることはする。このミグルーの姿をみたときに、私は世界的に有名な絵本「ピーター・ラビットのおはなし」を思い出しました。
───『ピーター・ラビットのおはなし』(作・絵:ビアトリクス・ポター 訳:石井 桃子 出版社:福音館書店)の舞台も、言わずと知れたイギリスですね。
『ピーター・ラビットのおはなし』とミグルーの共通点は、ファンタジーでありながら、じつはどちらもリアルな世界観に支えられてるということ。絵本作りの中では、大人が子どもに対してある明確なメッセージを持って、愛や友情、家族について伝えようとするとき、感動的なドラマの中にそのメッセージを込めるという方法が一つあると思います。そこには、はっきりとした善悪の価値観も自ずと入ってきます。わたしはそれも必要だと思うし、そういうスタイルで作られた作品の中にも大好きなものがたくさんあります。
いっぽう、ミグルーやピーター・ラビットの世界観はそういう大人が考える「理想像の表現」の対極にあるもので、善悪などの価値は一切与えられず、すべてが等価値で並列。そこに共感するとかしないとかの意味や価値を見出していくのは、読者であって、作り手が押し付けるのではない。それは、わたしたちの現実世界との関わり方と実は似ていて、客観的なリアリズムだと思います。
そういうふうに世界を眺めるのは「科学的態度」とさえよべるんじゃないかなと思うのです。
私自身は、子どもたちには「ミグルー≒ピーターラビット」的世界観も伝えていきたいと思っていますし、自分自身の作風も、ミグルー側だという意識があります。そういった意味で、ミグルーの世界を翻訳者として立ち合えたことはとてもありがたいことなんです。
───登場人物の名前も前田さんが考えられたんですよね。
最初は日本の子どもたちにイメージしやすい名前をつけようと考えていました。「フロッシー」を「ふわふわさん」という名前にするとか…。でも、ミグルーは世界中の子どもたちに読まれる絵本ですから、なるべく原文の音に近い名前にするようにしました。
───どの名前もとてもユニークですが、絵を見ると髪の毛や肌の色などいろいろで、ぽかぽかまちにはいろんな国の人が暮らしているのかな…と思いますよね。
まさにビーさんもそう考えて描いているそうです。絵本の中に、日本人のキャラクターも登場するんですよ。
───そうなんですか? それは誰ですか?
「スーキーさん」です。英語の表記が「SUKI」だったので気になっていたら、ビーさんご本人がそう言っていました。
───そういわれてみると、黒髪、黒い瞳ですね! しかも名前が「SUKI」だなんて!
そういう遊びはこの作品のそこかしこに隠されているんですよ。名前ひとつをとっても有名人の名前を由来にしているキャラクターがいます。例えば本屋さんの「ディケンズさん」はイギリスの小説家、チャールズ・ディケンズだったり、「パンクハーストふじん」は、婦人参政権獲得運動活動家として活躍したエメリン・パンクハーストだったり…。
もちろん、絵本には詳しい説明は出ていませんし、ウィリアム・ビーさんにまだ直接お聞きしていないので、想像ですが…。
───これだけ細かい設定を考えて描かれている作家さんですから、きっと前田さんが考えているような意味で名前を付けられたんでしょうね。「マクレガーさん」や「フロプシー」は「ピーター・ラビット」に登場するキャラクターですよね。絵本の中には看板などが沢山出てきますが、このデザインも前田さんが手がけられたと聞きました…。
そうなんです、原書では看板の文字はフォントを使っているんですが、ADさんからのご提案で手描きにした中に、私が描いたものもいくつか使っていただいています。
───前田さんのデザインはどれですか?
私が描いたのは「ぽかぽかけんせつ」や「バジルドーナッツ」「やきたてピザ!」も描きました。描いているとどうしても絵を描きたくなってしまって、字だけで表現するのは難しかったですね。ビーさんも「日本版のデザイン、すごく良いですね」って喜んでくれました。
───前田さんの描く『野の花ごはん』(白泉社)や「野の花えほん」シリーズ(あすなろ書房)は、「ミグルー」と同じくらい描きこみが細かく、かなり深いレベルまでしっかり調べてから描いている印象を受けました。
私自身、ひとつのものを深く掘り下げて調べてから描くのが好きなんです。1冊作るのに本当に沢山の資料を読んだり、調べたりしますがそれが全然苦にならないんです。
───絵本作家になりたいと思ったのはいつぐらいのときですか?
大学生の頃はマンガ家を目指していました。私が子どもの頃は今のように絵本がたくさん出版されていませんでしたから、好きな絵とおはなしを描くにはマンガ家になるしかないと思っていました。実際に少女マンガ雑誌に投稿したりして何回か賞をもらったこともあるんですよ。でも、いわゆるストーリーマンガが描けなくて、マンガ家になる夢をあきらめかけたとき、草花の絵を描くことにハマったんです。
───そこから『野の花えほん』が生まれたんですね?
その頃はまだ絵を描くことと絵本が結びついていなくて、「草花の絵を描く仕事は「画家」だ!」と思い、イギリスに渡って草花の専門学校に通ったりしていました。絵を描くことと絵本が結びついたのは結婚して京都で暮らすようになってからなんです。私にとって、絵本は『ぐりとぐら』(福音館書店)など、子どもが楽しむファンタジーというイメージがあったので、ガーデニングや野の花の知識や情報が絵本になるなんて、思ってもいませんでした。
───先ほど子どもの頃は身近に絵本が少なかったとお聞きしましたが、好きな絵本や作家さんはいましたか?
リチャード・スカーリーは今でも大好きな絵本作家です。これは子どもの頃叔母がアメリカから送ってくれた絵本ですが、あまりにも好きすぎて、結婚しても持ってきてしまったくらいです(笑)。「ミグルー」を読んだとき、どことなくスカーリーの絵本に通じるものを感じていたのですが、ビーさんご自身もスカーリーを好きだと言っていて、とても納得しました。
───前田さんは今までも翻訳を担当された絵本がありますが、絵本作家のお仕事と、翻訳のお仕事はやはり違いますか?
違う面もあるし、似ている面もあります。違う所は、「翻訳」では、著者の意図をくみとって大切にすること。似ている点は、それが絵もふくめた「本作り」だということです。普段、絵本を描くときは1人でもくもくと作業をすることが多くて、孤独なのですが、翻訳の作業は著者あってこその共同作業。自分と全く違った作風に触れることができて、とても良いリフレッシュになりました。私は絵本のラフ(下絵)を描くとき、InDesignなどデザインソフトを使って絵と文章を同時に考えていくというスタイルを取っているのですが、今回「ミグルー」の翻訳も、自分の絵本を作るときと同じ作業をしてみました。そうすることで「ミグルー」の世界により入り込むことができて、とても楽しかったです。
───前田さんの中で「ミグルー」のようなさがし絵絵本を作ってみたという思いは生まれましたか?
これだけ多くのキャラクターが出てくる絵本は私には、かなり難しいかな…(笑)。 作風は全く違いますが、ビーさんの作品に込める集中力や、毎日淡々と絵に向かってお仕事をされている様子にはすごく親近感を感じました。
───今日はミグルーとぽかぽかまちの住人のことをたくさん知ることができてとても嬉しかったです。最後に絵本ナビユーザーへメッセージをお願いします。
『こいぬのミグルー だいかつやく』は、究極のさがし絵絵本だと思います。すべてのキャラクターを追うだけでも発見があるし、自分の好きなキャラクターを決めてもいいし、いろんな楽しみ方ができると思いますし、親子だったらみんなでワイワイと話が弾みますし、大人でも色んな楽しみ方ができると思います。この本を多くの方に楽しんでもらって、「ミグルー」という名前の犬が日本に増えたら嬉しいですね
───本当にありがとうございました。
───前田さんは翻訳作業が終わった後、ウィリアム・ビーさんに『こいぬのミグルー だいかつやく』の制作について、メールで質問をされたそうです。そのやり取りの一部を特別に公開する許可をいただきました。
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