32人の絵本作家が、震災をめぐる記憶と物語を、それぞれの絵とエッセイで綴る『あの日からの或る日の絵とことば 3.11と子どもの本の作家たち』(創元社)が刊行されました。執筆された作家の1人であり、装画を描かれた荒井良二さんと、編者の筒井大介さんにお話をうかがいました。
――3.11と子どもの本の作家たち。 現代を代表する絵本作家たちが描く、震災をめぐる或る日の記憶。 『翻訳できない世界のことば』のイラストブックシリーズ。現代を代表する絵本作家たちによる、絵とエッセイを収録。初のエッセイ書き下ろしとなる作家も多数。 【イラストとエッセイ】(五十音順) 阿部海太/荒井良二/飯野和好/石黒亜矢子/植田真/及川賢治/大畑いくの/加藤休ミ/軽部武宏/きくちちき/坂本千明/ささめやゆき/スズキコージ/高山なおみ/tupera tupera 亀山達矢/寺門孝之/中川学/中野真典/nakaban/長谷川義史/ハダタカヒト/原マスミ/樋口佳絵/穂村弘/牧野千穂/町田尚子/ミロコマチコ/村上慧/本橋成一/本秀康/ヨシタケシンスケ/吉田尚令
●曖昧な2011年と個人の些細な物語
───荒井良二さんは、いわゆる「3.11」と呼ばれる、東日本大震災の年に『あさになったので まどをあけますよ』(偕成社)を出版されていますよね。
荒井:そうですね。僕は「山形ビエンナーレ」という芸術祭にここ何年かずっと関わっていて、生まれ育った山形に定期的に帰っているんですけど、山形から宮城へ陸路で行きやすかったのもあって、震災直後から、山形の大学の先生や学生たちと宮城を足がかりにして、東北各地へ通っていました。あの本は、東北と東京を行ったり来たりしながら2011年の7、8月に描いていた本です。
───東日本大震災をきっかけに描かれた絵本ということですか?
荒井:それ以前から風景を大きく描いた絵本を作りましょうという企画があって、進んでいたんですよね。でも震災があって編集者に「ごめん、しばらく絵本ストップするね」と伝えて。しばらく東北と行ったり来たりの生活になるからと。でも現地に何度も行くうちに、ふと、2011年の日付の絵本を1冊出しておきたくなった。年内に出版するとしたらタイミングがぎりぎりだったけど、いっぺんそれまで描いていたものはご破算にして、新しく描いたのが『あさになったので まどをあけますよ』です。絵を描くだけで僕としては異例の1か月半かかりました。
筒井:僕は2002年に荒井良二さんと出会って、これまで何度か編集者として一緒にお仕事させていただいていますけど、荒井さんが1冊の絵を描くのにそれだけかかるというのは、確かに珍しいですね。
───ふだんはもっと早いのですか?
荒井:1か月半はかからないね。早く描きたいわけじゃなくて、描きはじめたら終わるまで集中してその絵本に付き合っていたいから、ずーっと描いていたら必然的に早く描き上がるという感じだけど。2011年は東北への移動を挟みながら描いていたから……。ただ、記憶が曖昧なんだよね。僕は東京に住まいがあったけれど、心ここにあらずというか、しょっちゅう東北にいて、自分がふだんどんなものを食べて何をしていたかはっきりしないんだよね。いろいろ記憶が抜け落ちているというか、よくわからない、とても曖昧な、そんな年でしたね……2011年は。
───「あの日、あのとき」の記憶は人それぞれの心の中にあるものだと思いますが、今回あえて、子どもの本の作家たちの「あの日からの或る日の絵とことば」を集めたのは、どのような思いがあったのでしょうか。
筒井:今回絵とエッセイを寄せてくださった作家は32人ですが、本当は100人、200人の声を聞きたかったのです。ページ数の事情で32人の方々になりましたけど、「あの日から」を生きてきた作家たちの、個人的な、他人にとっては何ということもないような些細な物語を、できるだけたくさん聞いてみたいと思いました。
───なぜそのように思ったのでしょうか。
筒井:震災からもうすぐ8年が経つ中で、個々の心の内を聞いてみたくなったんです。震災直後に、作家たちにお声がけして支援のためのグループ展もやりました。「原子力反対」とか大きなスローガンを掲げ、意思表示してきた作家もいたと思います。でも、「あのとき、あれから、どんな心持ちだったのか、今、どう感じるのか」について、仕事でおつきあいのある作家や友人とも話してこなかったのではないかなと。日常の中で親しい人同士が、そのことにあまり触れずにお互い過ごしてきたかもしれないという気がしたのです。
それともうひとつ。3.11以降、絵本の傾向が変わってきているのではと感じています。生命力にあふれたダイナミックな絵本や、逆に死をテーマにしたものも増えたと思います。それ以前であれば、「怖い」といって敬遠されたかも知れない絵を描く作家が支持を集めるようにもなりました。
先ほど『あさになったので まどをあけますよ』の話がありましたが、何気ない日常を繰り返す、ということの意味が、震災後はとても重みを増したように感じます。
●ふるさと、家族、日常の断絶
───たとえば阿部海太さんは震災をきっかけに「故郷」について考えを巡らせていることを書き、軽部武宏さんは小さい頃から無心に遊んだ水郷地帯の、原風景の肌触りが変わってしまったことを示唆しています。
京都在住の中川学さんは震災の瞬間にいた、東京のギャラリーMAYAの個展会場に立つ後ろ姿の絵を描いています。中川さんの絵の中にあるような“時がとまったような瞬間”を、心のどこかで引きずっている人がたくさんいるのかもしれないと思いました。
一方で中野真典さんは、家族の緊急入院で“いつも通り”でなくなる日常について書いていますね。
筒井:そうですね。震災が起きた日のことを書いてくださった方もいるし、震災を境に自分の中にうずまいている思考や、震災のことではないけれど突然に訪れた「日常の断絶」を書いてくださった方もいます。
───ちなみに筒井さんはあの日どのように過ごされていたのですか。
筒井:僕自身は本の「まえがき」で書いているように、地震を感じたのは、絵の展示を見にいくためにちょうど渋谷の西武百貨店の上りエスカレーターに乗っているときでした。何とか帰宅し、その夜は、電話もメールも通じない、家人も遠方の職場から帰ってこられない中で、ツイッターを見ながら一人で不安な夜を過ごしました。
───荒井さんはその日どこにいらっしゃいましたか?
荒井:東京の自宅で仕事中でした。ベランダか何かの工事のために、職人さんが2人来ていた日だったと思います。大きな地震が来て、1人の職人さんはベランダにしがみついたまま、もう1人の職人さんはとっさに家から離れて逃げていました。
僕は打ち合わせに行く予定があったから「電車が動いているかどうかちょっと見に行ってくる」と家族に告げて、駅に行きました。そしたら余震がすごくて、電車は動いていないし、みんな駅の外に出て来て、揺れる電柱をみんなで見上げているんだよね。突然「荒井さんですか」って知らない人に話しかけられて「あっ、はい」と返事して、二言三言話したことを覚えていますね。これは打ち合わせには行けないなと思って、家に帰ってきてテレビをつけたら……、あの状況だったんだ。
───首都圏は震度5強が最大でしたが、交通も通信も混乱していました。東北は最大震度7で、とくに宮城・岩手・福島では多くの方が亡くなり原子力発電所の事故がありましたね。
荒井:あれから暮らす上での価値観や、物の見方がひっくり返されちゃって、考えが路頭に迷う状態だったと思います。「未来」というとき、漠然とした未来じゃなく、過去を見直すとか振り返るとかじゃなく、「過去に準じた未来」というかね……。今から見ると、いろんなものが変わる転換点になったと思います。