細かく描き込まれたペンタッチの線画。造語、古語を織り交ぜ、韻をふむテキスト。ユニークな作品で熱狂的なコレクターを生み出したエドワード・ゴーリーを知っていますか? 日本では2000年に3冊の絵本『ギャシュリークラムのちびっ子たち』『うろんな客』『優雅に叱責する自転車』が翻訳出版されたことをきっかけに、一躍ブームが起きました。
訳したのは人気翻訳家の柴田元幸さん。80年代以降、ポール・オースター、リチャード・パワーズ、レベッカ・ブラウンなど多くの注目すべき現代アメリカ小説を日本に紹介してきた柴田さんが、なぜエドワード・ゴーリーの“絵本”を訳すことになったのでしょうか。
ゴーリー作品の魅力について語っていただきつつ、柴田さんと作品との出会いや、翻訳の舞台裏をお聞きしました。
“大人向け”と評されがちなゴーリー絵本ですが、子どもと一緒に楽しめそうな絵本も柴田さんにおすすめしていただきました!
●『ギャシュリークラムのちびっ子たち』と『うろんな客』からはじまったゴーリー作品ブーム
───エドワード・ゴーリーの絵本というと、一部ではものすごいブームがあって、ここ数年開催されている展示(ゴーリー作品のコレクター、濱中利信さんのコレクション展)にはたくさんファンの方がいらして、絵本を買って行かれるそうですね。
15年前にはじめて日本で翻訳出版したときは、ここまでブームになるとは思っていませんでした。
同じ本を1冊買うだけではなくて、気に入ると何冊もプレゼント用に買ってくれる人がいるのは絵本ならではですね。
最初の頃は、今みたいにSNSも発達していなかったから、出版社や訳者である僕宛に、読んだ感想を手紙で送ってくれる高校生もいたりしたんですよ。ゴーリーファンが日本で増えているのが感じられて嬉しかったです。
───2015年現在、エドワード・ゴーリーの絵本は18冊出版されていますが、どの作品にとくにファンがいるのでしょうか。
最初に訳した『ギャシュリークラムのちびっ子たち』と『うろんな客』はとくにファンが多いですね。
『ギャシュリークラムのちびっ子たち』は、アルファベット順に子どもたちがそれぞれのページでいろんな死に方をする本なので、翻訳出版にあたっては日本の出版社内でも反対意見があったと聞いています。
まあそういう「常識」的なことを言うのが、管理職的な立場にある人にとってはほとんど義務なんだろうけど、「死ぬからよくない」と決めるのは少し考えが硬いと思う。
大人のための絵本作家として世界的なカルト・アーティストであるエドワード・ゴーリー。子どもたちが恐ろしい運命に出会うさまを、アルファベットの走馬灯にのせて描いた代表作。
───うちには小学2年生と4歳の二人の娘がいるのですが、「Dはデズモンド そりからなげられ D is for DESMOND thrown out of a sleigh」の場面で「見せて、見せて!」と二人とも身をのりだして、なぜだか嬉しそうで(笑)。
子どもは意外と平気なのかもしれないと思いました。
ゴーリーの絵本は「残酷だ」と言われることもあるそうですが……。
「残酷だ」と思うのは見る人の自由なので、そう言う人に「いいえ、残酷ではありません」と言い返す気はありません。それにたしかに、内容としては子どもがさらわれたり死んでしまったりします。
でも逆に……たとえば『ギャシュリークラムのちびっ子たち』が好きな人で、「子どもが死ぬから好きなんです」と言う人はあまりいないと思うんですよね。
子どもが階段から落ちたことが書かれていたとしても、それだけではない、何か別のことが表現されている。それも問題にしてほしいですね。
───うちの子どもたちはけっこう怖がりですが、一緒に読んで怖がることはありませんでした。
分からない言葉は説明しながら何冊か読みましたが、小学2年生の娘は、この『ギャシュリークラムのちびっ子たち』と『不幸な子供』が好きだったみたいです。
『不幸な子供』も人気があります。19世紀ヴィクトリア朝の裕福な家庭に育ったシャーロットという女の子が、おとうさまのアフリカ行き、おかあさまの死をきっかけに不幸になってしまう……。『小公女』のパロディですね。
- 不幸な子供
- 作・絵:エドワード・ゴーリー
訳:柴田 元幸 - 出版社:河出書房新社
おぞましい小動物があちこちで蠢く、掛け値なしの悲劇。トレードマークの微細な線画で、圧倒的な背景を描き込み一人の少女の不幸を悪趣味すれすれまでに描いた傑作!
───『不幸な子供』の絵の中に、何だか分からない黒い生き物がいて、どのページにもどこかにひそんでいますでしょう? 棚の影から尻尾だけ見えていたり、ベッドの下にいたり。
そういうものを探すのも、娘たちは好きでした。
子どもはきっと好きでしょうねえ。ゴーリーの絵本の中にはよく仕掛けがありますからね。 白い紙きれがなぜか端々に描かれていたり、「ファントッド」って言うんですけどちょっとかわいくさえある不思議な生き物が描かれていたりね。
───人間たちの服装は上品でクラシック、家の調度品も重々しい雰囲気。その中に、何か異質なものが紛れ込む感じが際立っていますね。
絵や文章にそこはかとないユーモア、詩的で映画的な魅力があります。
19世紀のイギリスでは、悪さをした子どもが悲惨な目にあう、いわゆる“cautionary tales”(教訓譚)と呼ばれる詩や物語が数多く書かれました。
この『ギャシュリークラムのちびっ子たち』のアルファベット・ブックも、そうした型をふまえているように一見見えますが、実際は、教訓とまったく関係がない。「ギャシュリークラム」もおそらく造語です。
この本に限らずゴーリー作品の多くは、19世紀ヴィクトリア朝イギリスで流行った子ども向け本のパロディととらえることもできると思います。
───一方、『うろんな客』はそこまで不幸な内容ではありませんね(笑)。ある日突然現れた奇妙な生き物が描かれています。とってもヘンでおもしろい!
- うろんな客
- 作・絵:エドワード・ゴーリー
訳:柴田 元幸 - 出版社:河出書房新社
カギ鼻あたまのヘンな生き物がやってきたのは、ヴィクトリア朝の館。とある一家の生活の中に、突然入り込んできて、そして、それから――。ゴーリー独自の文章が稀代の翻訳家によって短歌に!
『うろんな客』のキャラクターは、ゴーリー作品中一番人気と言っていいでしょうね。ものすごく人気があります。
冒頭、窓の外から家の中をのぞく奇妙な生き物が描かれているわけですが、よく見ると、背伸びをしてのぞいていて、風がピューピュー吹いていて、その後ろ姿がなんだかちょっと切ない(笑)。
マフラーをたなびかせて、足元はコンバースのシューズで。
ちなみにエドワード・ゴーリーもこの白いシューズの愛用者で、ニューヨーク・シティ・バレエ公演を欠かさず観劇していたときには、毛皮のコートにテニスシューズ、大きなアクセサリーをつけた姿がしばしば目撃されていたそうです(笑)。
───それは目立ちそうですね(笑)。
このペンギンみたいな、名なしの生き物がかわいくて、読んでみるとその存在はまさにうろんな客。
「うろん」という日本語訳がおもしろいですね。
Doubtfulを「うろんな」と訳したことは自分でも成功したなと思います。
原題のThe Doubtful Guest をそのまま訳せば「疑いぶかい客」で、でもゴーリーはちょっと違う、古い意味でDoubtfulを使っています。むしろ「奇妙な」の意。絵本風に訳すならひらがなで「ふしぎなおきゃく」となったかもしれない。
「うろん(胡乱)」って、ギリギリ聞いたことはあって、何となく意味はわかるけど日常では使わない言葉ですよね。僕が好きな、いしいひさいちの漫画の中で、扉ページに「うろんな問題」というキャプションが付いていて男がうどんを食っている、というのがあっておもしろいなと思ったことがありました。
そのうちどこかで使えたら「うろんな」を使おう、と頭のすみに置いてあったんですよ。だからたぶん、訳しているときにぱっとおりてきたんでしょうね。思いついてよかったです。
───「出し抜けに 跳び降り廊下に 走りいで 壁に鼻つけ 直立不動」
「何言えど およそ聞き耳 持たぬふう 喉も嗄(か)れはて 一家就寝」……(笑)。
『ギャシュリークラムのちびっ子たち』では対句になっている文をそのまま生かすイメージで訳しましたが、『うろんな客』では趣向を変えて、短歌形式で訳してみました。
ゴーリーの文章はシンプルできちんとした韻文が多い。形は非常にかっちりしていて、中身はシュールという“ずれ”がポイントなのだと思います。なので、短歌の型にはめ込むことで、その定型性を再現できればと思いました。歌人の水原紫苑さんが訳文にお力添えくださったおかげですね。
ゴーリーはサイレント映画への愛と造詣が非常に深くて、ゴーリーお気に入りの、フイヤードというサイレント映画監督の作品にそっくりの場面も絵本の中に登場します。
『うろんな客』の場面に出てくる、背景の壁紙の細かさといったら……、フイヤードの映画のワンシーンにそっくりですよ。YouTubeで探すと見られます。
───それにしてもこの生き物は、本のページを破り取る、やたら癇癪を起こす、家の物を隠す、池に投げ入れる……。すごく迷惑な存在なのですが(笑)。
この、いったい誰なのか分からない「うろんな客」の行動を短歌調でつづけて、最終ページだけ種明かしのように散文にしたところが自分でも気に入っているところです。
「――というような奴がやって来たのが十七年前のことで、今日に至ってもいっこうにいなくなる気配はないのです」とね。ここ、実はつげ義春の短編漫画「李さん一家」のラストを意識したんですよ。
───えっ、そうだったんですか!?
「李さん一家」というのはつげ義春が『ガロ』に発表した短編漫画(1967年)でね。「ぼく」の家の2階に、いつのまにか李さんという名の4人家族が住み着く。「ぼく」は迷惑で仕方ないけど一家はいっこうに出ていかない。ラストは「この奇妙な一家がそれからどこへ行ったかというと……実はまだ二階にいるのです」と終わるんです(笑)。
しかし『うろんな客』を読んだ、僕と同世代の友人たちはみんな分かったねえ(笑)。「あれ、つげ義春だよね」って。
───まさか……つげ義春だったとは(笑)。
あとがきでは、この珍奇な客の、可笑しさ、不可解さ、突拍子もなさは、すべての子どもの比喩ではないか、とありますが。
ゴーリーの大学以来の友人だった、作家のアリソン・ルーリーがそう言っていて、あとがきでも紹介したので、この本の短評が雑誌に出たりすると、「子どもの成長を描いた本です」とまとめてあったりしましたが、あくまでそうも読めるというだけの話です。
でもまあ『うろんな客』はアリソン・ビショップ、つまりアリソン・ルーリー(ビショップは結婚後の名前)に捧げられているので、そのくらい主張する権利が彼女にはあるかもしれない(笑)。